くじ引きから始まった雪山の街 ―― 志賀高原・一の瀬、開拓の60年

くじ引きから始まった雪山の街 ―― 志賀高原・一の瀬、開拓の60年

この記事は、志賀高原・一の瀬で最初期から宿を営む「志賀一井ホテル」の児玉市郎次社長への取材をもとに編集しました。一の瀬の開拓を間近で見つめ、自らも歩んでこられた社長の証言を軸に、エリアの歩みをたどります。

志賀高原のほぼ中央。宿が集まり、バスが行き交い、どのスキー場へも出やすい一の瀬は、いま「滞在の拠点」として知られています。けれど、この便利さは最初からあったものではありません。一の瀬は志賀高原で“最後”に開かれた宿のエリアであり、道も水もない雪山に、人の手で一軒ずつ築かれてきた場所です。一の瀬に最初期から店を構える一軒の宿の歩みをたどると、一の瀬という土地そのものの歴史が見えてきました。


クリスマスイブの夜、雪山に灯がともった

昭和39年(1964年)12月24日。のちに志賀一井ホテル(創業時の屋号は「一井荘」)となる小さな山小屋に、初めての宿泊客が訪れました。大阪から来た6人の学生グループ。「志賀高原に新しくできたスキー場で滑りたい」と、泊まる宿も決めずに上ってきた若者たちでした。

当時、一の瀬まで車で入る道はまだありません。麓からロープウェイやリフトを乗り継ぎ、最後は雪の中を歩く。荷物やスキー板はソリに積み、宿の人間が引いて運ぶ ―― そんな時代でした。蓮池のロープウェイ駅長から「お客さんが来たけれど泊まれるか」と連絡を受け、創業者は雪道を下って客のソリを引き、宿まで案内したといいます。

宿を開いたばかりの一家にとっては、何もかもが手探り。「いらっしゃいませ」のひと言さえ、どう言えばいいのか分からなかった ―― 現在のホテルの主人は、先代から聞いたその夜の様子をそう振り返ります。日本を代表するスノーリゾートの歴史の、ささやかで確かな出発点でした。

昭和54年の一の瀬ダイヤモンドスキー場

一の瀬は「最後に開かれた」エリアだった

なぜ一の瀬は、宿が後から、しかもまとまって生まれたのか。その理由は、志賀高原全体の成り立ちにあります。

志賀高原の観光開発は戦前から動いていました。1930年代の半ば、鉄道省(国際観光局)は外国人観光客を呼び込むため、全国のスキー場から「国際スキー場」を選定。志賀高原は妙高・赤倉などとともに「上信越国際スキー場」に指定されます。昭和12年(1937年)には、長野県が国策ホテルとして建設し京都ホテルが運営した志賀高原ホテルが開業。文人や政治家、著名人が集う社交の舞台となりました(このホテルは1999年に営業を終え、現在は志賀高原歴史記念館として保存されています)。一の瀬で語り継がれている話では、この誘致には大倉財閥の大倉喜七郎が東京で力を尽くし、地元の和合会が広大な土地を提供し、長野電鉄が開発を担ったと伝えられています。

戦後、丸池一帯は連合軍(GHQ)の保養地として接収され、昭和27年(1952年)にようやく接収が解除されます。その間の昭和24年(1949年)、志賀高原を含む一帯は上信越高原国立公園に指定されました。観光地としての価値と、自然保護の両立。この二つが、強く意識されるようになります。

昭和30年代以降、民間のスキー場が次々と開かれ、利用者は爆発的に増えていきました。そこで持ち上がったのが「これ以上、無秩序に人を入れては国立公園が守れない」という問題です。一の瀬地区は、環境行政と和合会の合意のもと、宿を計画的に配置する「集団宿泊施設地区」として開発されました ―― それも、志賀高原のなかでいちばん最後に。広げられるだけ広げたのではなく、総量を抑えながら整えられた。一の瀬がいまもエリアとしてのまとまりを保っているのは、この始まり方ゆえです。


くじ引きで始まった、という事実

一の瀬らしさを象徴するのが、入居の決め方です。場所はくじ引きでした。

昭和38年(1963年)、対象となったのは旅館30軒と寮10区画。希望者は定員を上回り、外れた人は横手や雑魚川方面など、別の場所へと向かったといいます。入居の受付は昭和48年(1973年)まで続き、最終的に約25軒の旅館が並びました。

リゾート開発といえば、ふつうは事業者が一番条件のいい土地を選び、自分たちで磨き上げていくものです。けれど一の瀬は違った。スキー場のすぐ前に当たった宿もあれば、数十メートル離れた区画に当たった宿もある。立地の良し悪しは「運」だった ―― だからこそ、この土地には独特の平等意識が根づきました。

「みんなくじ引きで、平等に入ったんだ」。現在の主人は、その精神が一の瀬の土台にあると語ります。小さな資本の宿ばかりが25軒。先に栄えていた丸池の大きな宿を「追いつけ追い越せ」と、スクラムを組んで協力する。共同で出すお金はみんなで等しく負担する。旅館組合が独立した事務所を構えたのは、志賀高原でも一の瀬だけ。宿同士が近く、組合の結束が強い背景には、この“くじ引きの平等”がありました。


道も水もない雪山に、宿をつくる

開拓当初の苦労は、いまの旅行者には想像が難しいものです。冬の道は一本通っただけで、あとは自分たちで切り拓く。建築資材も数人がかりで担ぎ上げる。そして何より深刻だったのが、水の確保でした。

自分の土地に水が湧かない宿は、山奥へ水を探しに行きます。頼りになったのは、夏に炭焼きや木の伐り出しをしていた山仕事の人たちの知恵。「あそこの沢は冬でも枯れない」という言い伝えを聞き、現地を確かめて回ったのです。やがて宿の主人たちは共同で一の瀬水道組合(昭和38年結成)をつくり、農協から資金を借り、沢に穴を開けたパイプを何本も埋めて水を集め、タンクにまとめ、ポンプでスキー場側へ送る ―― 飲み水の仕組みを一から築き上げました。宿の経営者であると同時に、インフラの担い手でもあったのです。

スキーブームで利用者が増えると、今度は排水が追いつかなくなります。各宿の浄化槽の能力を超えて客を受け入れた結果、川が汚れ、保健所の指導も入りました。そこで一の瀬は、全国でも初めてとなる山岳地の汚水処理場を整備したといいます(場所は一の瀬を流れる川の下流、プリンスホテル南館の対面付近)。便利な観光地の足元には、自然を壊さずに人を迎えるための、地道な工夫が積み重なっていました。


なぜ一の瀬は「街」になれたのか

スキーブームは、一の瀬を一軒一軒の宿の集まりから、ひとつの“街”へと育てました。

1970年代の学生スキーブーム、その後を支えたスキー修学旅行の需要、そして平成3〜4年(1991〜92年)のピーク。当時の発表では志賀高原のスキーヤーは冬季だけで年間約350万人に達したとされます(現在はおよそ100万人)。バブル崩壊後、全国の観光地が苦しむなかでも、志賀高原は1991年の長野オリンピック招致決定から1998年の開催まで比較的堅調を保ち、五輪後にようやく減少が顕著になっていきました。

そのなかで一の瀬が強かったのは、宿がまとまって「街」として機能していたことでした。一軒だけがぽつんと建つのではなく、宿が集まり、飲食店があり、人の行き来がある。「同じ料金なら、ここがいい」と選ばれる界隈の力です。

立地の面でも追い風が吹きます。昭和44年(1969年)に奥志賀高原スキー場、昭和58年(1983年)に焼額山スキー場が開業し、冬もバスが入るようになりました。奥のスキー場へ出るにも、手前のエリアより一の瀬に泊まったほうが動きやすい。1983〜84シーズンには各スキー場を結ぶシャトルバスの運行も始まり、一の瀬は志賀高原の「ベースエリア」としての存在感を増していきました。いま初めての人にも一の瀬が使いやすいのは、偶然ではなく、長い時間をかけて育ってきた結果なのです。


温泉を持たない宿が、守る側に立った理由

一の瀬には温泉がありません。けれどそれは、単なる“ないもの”ではありませんでした。

実は昭和46年(1971年)に一の瀬でも温泉組合がつくられ、80メートルを掘って温泉旅館を目指した時期があります。しかし良質な源泉には当たらず、資金も続かず、組合は数年で解散。火山国ゆえ掘れば何が出るか分からないリスクもありました。

その一方で、一の瀬のすぐ下を流れる小雑魚川には、貴重な原種のイワナが生息していることが分かってきます。よそから稚魚を放流するのではなく、すべて自然孵化で世代をつなぐ在来の個体群。漁協や淡水魚学会の調査では、その生息密度は全国でもまれなほど高く、研究者を驚かせたといいます。一の瀬の水系は温泉を持たない代わりに、清流と、太古から続く生態系という価値を抱えていたのです。

この川は、横手側とは別の水系 ―― 小雑魚川から中津川、千曲川を経て信濃川へと注ぎ、日本海へ向かいます。温泉のような“余分なもの”が混じらないからこそ、原種イワナが守られてきたともいえます。

この選択は、いま改めて意味を持ちます。志賀高原は1980年(昭和55年)、日本で最初のユネスコエコパーク(生物圏保存地域)のひとつに登録されました。自然を厳しく保護するだけでなく、人の暮らしと自然の共生を目指す枠組みです。小雑魚川は「一の瀬イワナ原種保護地域」として知られ、地域に古くから伝わる共同作業「おてんま(御伝馬)」によって保全が続けられてきました。「あるもの」を磨くのではなく、「ないもの」をプラスに変える ―― 温泉のない一の瀬の姿勢は、むしろ時代の先を行っていたのかもしれません。


成功体験への反省と、これからの一の瀬

取材のなかで印象的だったのは、過去への率直な反省でした。

スキーブームの時代、一の瀬には「口を開けばお客さんが来る」状況がありました。全国の大旅館が多額の営業経費をかけて集客に走るなか、一の瀬はほとんど営業努力をせずとも客が訪れた。「スキー場に恵まれていた」がゆえに、長期を見据えた投資や次世代の戦略を描ききれなかった ―― 主人はそれを、世代を超えた反省として語ります。50年後の一の瀬をどうするか、旗を振るリーダーを欠いたまま、いまの世代へとバトンが渡された、と。

だからこそ今、一の瀬では再構築(リエンジニアリング)が始まっています。少子化で日本人スキーヤーが減り続けるなか、希望の光となっているのがインバウンドです。7〜8年前から少しずつ増え、ここ数年で一気に加速。学生団体中心から、一般客やインバウンドへ。宿泊だけでなく、食、レンタル、アクティビティ、ツアー案内までを旅館街の中心でワンストップに受け止める ―― そんな構想も動き始めています。

主人が望むのは、若い世代が世界を見ながら、一の瀬ならではの“光るもの”を見つけていくこと。アンテナを都会だけでなく世界に広げ、3人でも10人でも集まって動いてみる。くじ引きの平等から生まれた「みんなでやろう」という一の瀬のDNAは、いまも若手に受け継がれています。「過去は否定も肯定もできない、現実だ。だから、それに縛られず次の30年・50年をどうするか」。語られたのは、徹底した未来志向でした。


歴史を知ると、景色が変わる

志賀高原・一の瀬は、ただのスキー場の隣接したエリアではありません。戦前に国際スキー場を目指した時代があり、戦後は自然保護と観光の両立を考えながら、計画的に開かれた。くじ引きで平等に始まり、道を拓き、水を引き、全国に先駆けて汚水処理を整え、温泉ではなく清流と原種イワナを守る側に立った。その積み重ねの上に、いまの一の瀬があります。

この背景を知ってから歩くと、宿も、道も、バス停も、少し違って見えてきます。目の前の便利さが、誰かの工夫と協力の結果だと伝わってきます。

志賀高原に何度も通う人にも、これから初めて訪れる人にも。一の瀬は、背景を知るほど面白くなる場所です。


※本記事は、志賀高原・一の瀬で最初期から営業を続ける「志賀一井ホテル」の児玉市郎次社長への取材をもとに構成しています。年号・施設の沿革など一部の事実は公開資料で確認していますが、開拓当初の経緯やエピソードには、地域で語り継がれてきた証言に基づく記述が含まれます。

※本記事の画像出典は、志賀高原ストーリーブックを参照しています。