志賀高原の奥、道路がどこにも届かない場所に大沼池があり、志賀山から流れ出た溶岩が谷をせき止めて生まれたこの水は、高原に散らばる大小の湖沼のなかで最も広い。自分の足でしか行けない池。歩いて向かうという条件が、この池の値打ちを守っている面もあって、駐車場から数十歩で着いてしまう名所とは、着いたときの気持ちの入り方がまるで違ってくる。だから着いた人は最初の一歩で足を止めることになるのだが、それは疲れたからでも視界が開けたからでもなく、目の前の水が美しいというより、ありえない色をしているからである。

水の色が、日に何度も変わる
晴れた昼のコバルトブルーは、雲がひとつ流れてくるだけで鈍い藍へ沈む。日が差し直せば岸のほうから鮮やかなエメラルドグリーンへ抜けていくので、同じ場所に立っていても池は何度でも表情を変え、どれが本当の色なのか決められないまま時間だけが過ぎる。驚くほど濁ることのない水。酸性の水が絶えず流れ込むために魚が棲まず微生物も暮らしにくいこの池には、水を濁らせるものがそもそも無く、返ってくるのは澄んだ光だけである。光だけを返す水面。同じ日の朝と昼に撮り比べると別の池を写したようにしか見えないので、この色を言葉にしようとした人は、大抵は途中であきらめて写真だけ持ち帰る。空の機嫌が、そのまま水面の色に出る。静かな湖畔に立つ朱塗りの鳥居。祀られているのは水を司る弁財天で、周囲は特別保護地区に指定された森だから静かというよりしんとしていて、風が止まった一瞬には、湖畔に立つ自分の足音の残りまで聞こえてくる。ここが守り神の棲みかだと言われても疑う気にはならず、むしろそう聞いたほうが腑に落ちてくる場所である。
大蛇は、守り神だった
その守り神が、大蛇。守り神という言い方は穏やかだが、水を治めるということは荒れさせる力も同じだけ持っているという意味で、里の人は昔からそちらも承知していた。志賀高原の水を治め山の四季をずっと見てきた大きな蛇で、力にも徳にも欠けたところは無かったのだが、ただひとつ、連れ合いだけがいないまま長い年月が過ぎていた。大蛇が中野東山の小館城に美しい娘がいると知ったのは、そういう欠け方をしたまま長い年月を過ごしたあとのことで、その娘の名を黒姫といった。黒姫の父にあたる城の主が、高梨摂津守政盛。山の主に望まれた父の困り方は想像がつくもので、断れば何が起きるかわからず、承知すれば娘を山の池へ渡すことになるという逃げ道の無い二択だった。そこで父が出したのが、ひとつの条件。馬の後を七周、走ってみせよ。
刀を植えた父
七周など、蛇の体にとって走れない距離ではない。そして大蛇は、ほんとうに走りだした。刃を隠した草の上を、七周。ところが父は走路の草のなかに刀を仕込んでいて、刃を上へ向けて逆さに植えたその刀が、周を重ねるたびに大蛇の胴を裂き、走った跡の草を血で染めていった。走りきったとも伝わるが、そこを確かめる術は、もうどこにも残っていない。それでも、約束された姫が渡されることは、ついになかった。はじめから、果たされる気のない約束だったもの。伝説というものは大抵、人の側に都合よくできているのに、この話は父の策略をはっきり書き残していて、悪者を大蛇の側に置かないまま、この土地で長く語り継がれてきたことになる。

池に身を投げた娘
怒りに震えて志賀高原へ戻った大蛇が雨雲を呼ぶと雨は止まなくなり、谷が膨らみ、川が土手を越え、里は田も家もまとめて水の下へ沈んでいった。人の力で止められる規模を、とうに越えていた。娘が水へ入って雨が止んだという結び方は、犠牲でしか収まらない災いが実際にあった時代の記憶の残り方にも見えてくる。もとをたどれば人の側の策が招いた水であり、大蛇の怒りだけを責めて済ませるわけにもいかない。黒姫がそれを見ていたことは伝わっていて、姫は誰にも告げずに山へ入り、大蛇の棲む大沼池へ身を投じ、そこでようやく雨雲が散り、山はもとの静かさへ戻ったと伝えられている。娘ひとりで収まる災いだったのか、それとも大蛇が姫を得たことで怒りを解いたのか、そこはどちらとも伝わっていない。池が今も同じ青さでそこにあることだけが、変わらずに伝わっている。山の主が里の娘を望み、里の父が刃で応じ、最後に娘が水へ入るというこの筋は、山と里の境目で長く暮らしてきた土地でなければ生まれない形をしている。
祭りは、池の上から始まる
大蛇祭りはこの話を土台にしていて、今年で第59回を数えるのだが、始まりの場所は人の集まる山の駅前ではなく、歩いてしか行けない伝説の舞台そのものである。祭りの前日に大沼池で行われる入魂祭。大蛇に魂を入れる儀式のあと、赤と白の胴が水面をわたっていく湖上渡りが続き、あの美しい色の上を進む姿を見られるのは、自分の足で山を越えて池までたどり着いた人だけになる。見物そのものを断ってはいないが、一般向けの送迎は出ない。祭りの日に山の駅前へ行けば花火まで見られるものの、その前日に池で何が行われているかを知っているかどうかで、同じ夜空を見上げても目に映るものは変わってくる。伝説の舞台で始めて翌日に人の集まる場所へ下ろすという順番は、祭りの筋として気持ちよく通っていて、順序が逆になっていない祭りは、案外そう多くない。
山の駅前に、夜が来る
翌日の舞台となるのが、麓に近い志賀高原山の駅前。午後になるとキッチンカーが並んで屋台のゲームが始まり、景品を抱えた子どもが人の間を楽しげに走り回るという見慣れた夏の光景が、そのまま標高の高い高原の上で繰り返される。日が傾くころ蓮池ひろばからお練り行列が出るのだが、この列は誰でも入ってよく、加わった子どもには土産まで渡されるので、通りがかりの家族連れがそのまま列の後ろへ入っていく。行列が山の駅前に着くころ、あたりはもう暗い。沓野神楽の音が始まり、そのあとに上がる花火は標高の高い夜空が澄んでいる分だけ見事に色が濃く、音が山に当たって返ってくるので、打ち上がるたび二度鳴るように聞こえる。祭りが終われば高原は静かに秋へ傾き、湖畔の木々も高いところから順に色を変えはじめる。祭りのあとの夜の空気は、もう冷たい。大沼池までは麓の入口から歩いて1時間ほどで、祭りの日でなくてもあの澄んだ色は変わらずそこにあるのだから、次の休みにでもその色を自分の目で確かめに行ってほしい。
【旅の実用ガイド】
第59回 志賀高原大蛇祭り
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 日程 | 2026年8月21日(金)・22日(土) |
| 8月21日 | 入魂祭 10時45分から/湖上渡り(会場:大沼池) |
| 8月22日 | フードコーナー・屋台ゲームコーナー 15時から/お練り行列 18時から(出発:蓮池ひろば)/沓野神楽演奏 18時30分から/花火打ち上げ 19時45分から |
| 8月22日の会場 | 志賀高原山の駅前 |
| 駐車場 | 志賀高原総合会館98 駐車場 |
| お練り行列 | どなたでも参加可。参加した子どもにプレゼントあり |
| 入魂祭の見学 | 一般の見学は可能。一般向けの送迎の用意はなし |
| 主催・問い合わせ | 志賀高原観光協会 0269-34-2404(8時30分から17時) |
大沼池への歩き方
| コース | 発着地 | 距離 | 所要 | 標高差 | 難易度 |
|---|---|---|---|---|---|
| 清水新道 | 大沼池入口バス停から徒歩3分の清水公園 | 1.1km | 35分 | 40m | 中級 |
| 池めぐりコース | 硯川駐車場(前山リフト利用時は山頂駅) | 9.6km | 3時間30分 | 360m | 中級 |
大沼池入口の駐車場から池までは、片道およそ1時間です。池めぐりコースは森林セラピーの認定コースですが、四十八池湿原の木道が経年劣化で傷んでいます。踏み抜きと踏み外しに注意してください。
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