八月の終わり、志賀高原の朝はもう秋の匂いをまとっている。夜の間にすっかり冷えきった空気が窓の隙間からしずかに忍び込んできて、むきだしの腕にうっすらと鳥肌を立てていくほどの涼しさだ。心地よい寒さ。ふもとの街がまだ寝苦しい熱帯夜にあえいでいる頃にこの高原ではもう人が一枚羽織るものを探しはじめているのだから、残暑という言葉はここではどこか大きくそぐわない。夏の疲れを重たく引きずったまま九月へなだれ込んでいく下界と、ひと足先に秋のしずかな入り口へ立っている高原。同じ季節の同じ国とはとても思えないほどの深い隔たりが、この標高差のなかには静かに横たわっている。だからこそ一年で一番暑さのこたえるこの時期にこそ、わざわざ空に近いこの高原まで上がってくるだけの確かな意味があるのだと思う。
涼しさは、気温の数字ではない
避暑地を語るとき人はつい気温の低さばかりを持ち出したがるけれど、この高原がふところ深くたたえている涼しさは、何度下がるという味気ない温度計の目盛りにはとうてい収まりきらないものだ。原生林。湖沼。木道の湿原。空に触れそうな稜線。氷期の名残をいまもとどめた高山の花や、人知れずひそやかに息づいている小さな生きものたち。それらが幾重にも織りなしている大きな循環のただなかへゆっくりと身を置いてみると、夏の暑さに朝から追い立てられてすっかり縮こまっていた体が、奥のほうから一枚ずつほどけていくのがはっきりとわかる。体の芯が、ゆるむ。涼しいというあの感覚の一番深いところに横たわっているのは、たぶん、都会で失いかけていた何かがゆっくりと戻ってくる、しんと静かな回復の実感そのものなのだろう。
残暑の高原というものは、夏の暑さに疲れきった心と体をそっと奥からほどいていく、その静かな回復にこそ、一番深く似合っている季節なのかもしれない。夏の盛りのあのにぎわいがふっと潮のように引いて、木々の緑はいよいよ深く濃くなり、湿原の草は気の早い先端のほうからもう淡い秋の色へと染まりはじめている。人よりも、風や水や光のほうがずっと雄弁になる時間。歩けばじんわり汗ばむのに、ふと立ち止まった途端に背中をすっと涼しい風が抜けていって、その気持ちのよい振れ幅のなかを、時計のことなど忘れて気の向くままに歩いていく。
大沼池、原生林の奥のコバルトブルー
もし晩夏の志賀高原の自然をたった一日でまるごと味わい尽くしたいのなら、迷うことなく大沼池を目指すのがいい。志賀高原で一番大きなこの神秘的な湖は、時刻と光の移ろいしだいで、深く沈んだコバルトブルーから澄みきったエメラルドグリーンへと、まるで息をする生きもののように刻々と色を変えていく。強い酸性の水がどこまでも清らかに透きとおっていて、そこへ高い夏の日ざしがまっすぐ差し込む瞬間には、水そのものが内側から静かに発光しているのではないかと錯覚するほど、鮮やかな青がまばゆくきらめく。初めてこの吸い込まれそうな青を目の当たりにした人は、大抵言葉というものをすっかり失って、しばらくただその場に立ちすくんでしまう。こんな深い山のただなかに、どうしてこれほど美しい青が隠されていたのか、と。
湖へたどり着くには、ほとんど人の手つかずのまま深く残された原生林の奥を、ゆっくりと時間をかけて一歩ずつ味わうように抜けていくことになる。前山からリフトでひと息に高みへと運ばれ、四十八池のしんと静かな湿原を横目に見送りながら、鬱蒼とした木立の奥へと続く一本の道をたどっていく。頭上を背の高いブナやオオシラビソが幾重にも覆い、木漏れ日のやわらかく落ちる足元にはヒカリゴケがひそやかに緑の光をたたえている。深く爽やかな、命の匂いに満ちた森。一歩ふみしめるたびに、湿った土と落ち葉のあのやわらかな匂いがふわりと立ちのぼってくる。近づいては遠ざかる沢の音と、梢を軽やかに渡っていく名も知らぬ鳥の声を聞きながら歩くうちに、街でいつのまにか固く張りつめていた神経が、薄い皮を一枚ずつ剥がすように緩んでいくのがわかる。
やがて木立がふいに大きく切れて、目の前が一気に開ける。青。ただ、青。対岸の深い山影までもくっきりと映しこんだ静かな水面が、ひと吹きの風にそっと触れられて、無数の細かなさざなみへとこまやかに震える。この湖には古くから大蛇が棲むのだという伝説が語り継がれていて、夏の名残の八月の終わりには、その言い伝えにちなんだ大蛇祭りがいまも変わらず営まれている。これほどまでに神秘的な色をたたえた水をただ前にして立っていると、荒唐無稽なその古い物語さえも、ふしぎと本当のことのように静かに胸へ落ちてくる。岸辺の岩に腰を下ろして、ただ時間を忘れて、刻々と移ろっていく水の色をいつまでも眺める。それだけで、汗をかいてここまで歩いてきた甲斐が、じゅうぶんすぎるほどにある。
池から池へ、水のかたちを追って
大沼池だけが、志賀高原の水ではない。この高原は、遠い昔の火山が生み落とした無数の池と沼を、深い森のふところに静かに抱いている。硯川のあたりから前山のしずかな湿原を越えて一歩ずつ歩きだせば、道は森のなかのいくつもの水辺を、数珠つなぎにゆっくりとたどっていくことになる。まず出会うのが、渋池。周りの木々を音もなく映してしんと静まりかえる、小さな鏡のような池だ。水のうえにぽつんと浮かぶ小さな島と、そこに細く根を張ったわずかな木立の影とがなんとも言えず一幅の絵のように静かにおさまっている。さらに木道を奥へ進めば、四十八池のおおらかなひろがり。数えきれない池塘が湿原のあちこちに散らばって、その一つずつがうつろう空の色を静かに映しとっている。無数の、小さな空。そうして最後の下りを終えた先で待っているのが、あの大沼池の、吸い込まれそうな青だ。渋池から四十八池、そして大沼池へと、水のかたちと色がゆるやかに移ろっていくこの道のりは、亜高山帯のしずかな樹林にすっぽりと包まれた、まるごとひとつの深い森林浴になる。
大沼池や渋池からつづくこの高原の水の道の途中には、小さな木戸池もまた、ひっそりと寄り添うように連なっている。白樺とダケカンバのやわらかな緑にぐるりと縁どられた、どこまでも清らかに澄みきった水を静かにたたえる、山あいの池だ。風のやんだ静かな朝には、対岸の木立と高い空とを一枚の鏡のように映しこんで、上と下とにそっくり同じ世界がふたつ現れる。逆さの、森。水はこの高原をゆっくりとめぐりながら、そのたびごとにまるで違う表情をこちらへ見せてくれる。
田ノ原湿原、木道の上をわたる風
見る者を力強く圧倒してくる大沼池とはまるで対照的に、田ノ原湿原がこちらへそっと差し出してくれるのは、どこまでも澄みきった、深い深い静けさのほうだ。一本の木道が、淡く色づきはじめた広い草原のまんなかを、ためらう気配もなくまっすぐに貫いている。その上をゆっくり歩いていくと視界いっぱいに草の海がひろがって、風がひと息わたるたびに、数えきれない穂先がいっせいに同じ方向へなびいて、さざなみのように銀色に光る。穂の、銀の波。初夏に白い綿毛を風に揺らしていたワタスゲの季節はとうに過ぎ、晩夏の湿原はいままさに、みずみずしい緑から淡い金色へと、時間をかけてしずかに衣替えの支度を進めている。
湿原とは、水と草と気の遠くなるような膨大な時間とが幾千年もかけて根気よく織り上げてきた、繊細なレース細工のような場所だ。うっかり踏み込めばたやすく壊れてしまうから、人はただ木道の上だけを、そろそろと歩かせてもらうほかない。その慎ましさが、かえって心地よい。ふと立ち止まってじっと耳を澄ませてみれば、聞こえてくるのはやわらかな風の音と、遠くの沢のせせらぎばかり。空が、驚くほど広い。ちぎれ雲のうすい影が、金色の草原の上をゆっくりと横切っていく。ここでは時間の流れそのものが街とはまるで違うおおらかな速さに変わっていて、先を急ぐ理由など、どこをどう探してみても見当たらない。
渋峠、雲の上の県境へ
たっぷりと歩いて火照った体をゆっくりほぐしたあとは、なぜだか無性に、もっともっと高いところまで一気に車を走らせてみたくなってくるものだ。志賀高原の長い稜線をなぞるように貫いていく道は、登れば登るほどに視界を大きくひらきながら、やがて国道の一番高い場所、渋峠へと静かに登りつめていく。長野と群馬とをきっぱり分かつ、空がもうすぐそこにある県境。まさに雲の上の峠だ。
天気の条件さえうまくかみ合えば、眼下には息をのむような見事な雲海がひろがる。白い、音のない海。谷という谷を真っ白な海原がひたひたと音もなく埋めつくし、いくつもの遠い峰々だけが朝の澄んだ光のなかに小さな島のように浮かんでいる。その、どこか現実離れした静かな光景を、峠を鋭く吹き抜ける冷たい風に絶えず吹かれながら、ただ言葉もなくいつまでも黙って眺めていたくなる。すぐ隣にどっしりとそびえる横手山の頂からは、よく澄みきった日には、遠い北アルプスの長い連なりまでもがくっきりと一望のもとに見わたせる。標高が上がれば上がるほど、頭上の空の青はいよいよ深く濃く沈んでいき、胸いっぱいに吸い込む空気は薄く、そしてどこまでも澄んでいく。ここまで登ってきてしまうと、暑さという言葉はもう、はるか季節の彼方へすっかり消え去っている。上着の襟をきゅっと立て、かじかんだ両手をポケットの奥へ深く入れて、ただ稜線を吹き抜けていく冷たい風のなかに立つ。たったそれだけの何でもない時間が、なぜか、いつまでも消えることなく記憶の底へ焼きついて離れない。
一沼から、秋がはじまる
残暑という季節は、名残惜しい夏の長い尾であると同時に、これから来たるべき深い秋の、その一番最初のごくかすかな予兆でもあるのだ。そしてそのことを、志賀高原はある小さな古い池の静かなほとりで、訪れた者へこちらからそっと教えてくれる。一沼。高原のちょうど入り口に、浅い水をたたえて静かにたたずむ池だ。広い志賀高原のいくつもの水辺のなかでも、この一沼こそが、一年で最も早く秋の気配にそっと触れる場所として、古くから人々に知られている。岸辺のウルシやカエデがほかのどの場所よりもずっとひと足先に、まだ遠慮がちに、それでもはっきりと燃えるような赤を差しはじめる。ほんの数本の、気の早い紅葉。それでも、色づいた枝が鏡のような水面へくっきりと映り込む逆さ紅葉の光景は、思わず足を止めてしまうほど鮮やかだ。標高の高い横手山のあたりからひそかに色づきだした秋は、日を追うごとに山の斜面をゆっくりと下りてきて、やがて高原のすべてを、燃えるような色でつつみこんでいく。残暑のこの時期にわざわざ高原まで足を運ぶ者だけは、これから始まる長い秋の物語の、その一番最初のひと筆に、そっと静かに立ち会うことになる。
さらに奥、カヤの平のブナ原生林へ
もし時間と脚に少し余裕があるのなら、高原の北の外れ、カヤの平までゆっくり足をのばしてみるのもいい。日本一美しいとまでうたわれる、はてしなく長い歳月をその身に静かに重ねてきたブナの原生林が、ここには荒らされることもなく手つかずのまま深く残されている。見上げれば首が痛くなるほど背の高いブナの大木が、しんと静まりかえったまま、うす暗い視界のずっと奥まで、どこまでも延々と立ち並んでいる。ざらりとした太い幹にそっと手のひらをあててみると、ひんやりと湿った樹皮の奥のほうから、気の遠くなるような長い時間の重みがじかに手のひらへ伝わってくるようだ。足元には北ドブの湿原がやわらかくひろがって、過ぎゆく夏の花の名残と、これからやってくる草紅葉のかすかな気配とがひとつの野のなかに静かに同居している。長い冬の間は深い深い雪にすっかり閉ざされてしまい、人がその静かな森へ分け入ることをゆるされるのは、一年のうちのほんの限られたひと季節だけなのだ。太古の、静けさ。だからこそこの原生林は、いつまでも荒らされることなく、生まれたままの深い静けさをまるごと保ちつづけている。
夜、天の川に触れる
そして、志賀高原がとっておきに用意してくれている最上の贅沢は、いつも決まって日がとっぷり暮れきってから、そっと静かに訪れる。街の明かりからこれほど遠く、これほど空に近いこの土地では、よく晴れわたった夜、頭上の闇が信じられないほど深く濃く沈んでいく。宿のあたたかな灯りを背にして真っ暗な暗がりへと一歩ふみ出すと、見上げた夜空のちょうどまんなかあたりに、うっすらと白い光の帯が静かに横たわっているのに気づく。天の川だ。
しばらくの間じっと根気よく見上げつづけているうちに、こわばっていた目がようやく少しずつ夜の深い闇の濃さに慣れてくる。すると、さっきまでまるで見えていなかった無数の星の粒が、あとからあとから際限もなく湧いてくる。ひとつ、またひとつ。数えることなど、途中であっさりとあきらめる。ふいに一筋の流れ星が暗い視界の端をすうっと音もなく横切っていって、思わずその場で小さく息をのんでしまう。夏の名残をとどめた細い虫の音と、頬を刺すようにひんやりと澄んだ夜気。昼の間歩いてきた原生林も、風のわたっていた湿原も、雲の上のあの峠も、いまはみなただ黒々とした影となって、この途方もなくおおきな星空を、しんと静かに下から支えている。首の付け根が痛くなってくるのも忘れて、ただぼんやりと夜空を見上げつづけたまま、しばらくの間、その場から一歩も動けなくなってしまう。ちょうどこんな途方もない夜のためにこそ、人はわざわざ多くの苦労を重ねてまで、こんなにも空に近い高いところまで登ってくるのかもしれない。
そして、また戻ってくる
残暑のこうした一日は、名残を惜しむようにこうしてゆっくりと静かに暮れていく。原生林の奥ふかくにひそむ、あの青い湖。爽やかな風の渡っていく、淡い金色の湿原。雲を遠く眼下に従えた、空の上の高い峠。そして、頭上から今にも降ってきそうな、数えきれないほどの星。そのどれもがみな、何度下がったという素っ気ない気温の数字だけでは、とうてい語りつくせないものばかりだ。夏の終わりのこの高原は、都会の暑さにすっかりすり減ってしまった体と心を、こちらが気づかないうちに、そっともとのやわらかな形へと戻していってくれる。
もし何日かかけてこの高原に滞在する旅の拠点を選ぶのなら、静かな宿の集まる一の瀬あたりがきっとちょうどいいだろう。朝は青い湖や金色の湿原へ、昼は雲を見下ろす峠の風へ、そして夜はこぼれ落ちそうな満天の星の下へ。たった一日のなかで、この懐の深い高原が静かに隠し持っているいくつもの表情に、続けざまに出会うことができる。そうしてその夜ひと晩ぐっすりと眠り、翌朝もういちど、あのひんやりと澄んだ高原の空気のなかで目を覚ましたとき、きっと心の底からこう思うにちがいない。あともう一日だけ、この深い静けさのなかにいたい、と。すり減ったこの夏の疲れを高原の風へそっと手放しに、次の残暑は、あなたも空の近くまでゆっくり登ってみてはどうだろう。
【旅の実用ガイド】
| スポット | 標高・データ | 歩き方・メモ |
|---|---|---|
| 大沼池 | 志賀高原最大の湖/最深 約26m | 前山サマーリフトで標高約1,800mへ。四十八池湿原を経て原生林を歩く。色は光の加減で変化。8月下旬に大蛇祭り |
| 池めぐり(渋池・四十八池) | 前山湿原〜大沼池入口/全長約10.3km・約3時間30分 | 亜高山帯の樹林を歩く。硯川からは下り基調。バスは本数が少なく雨具は必携 |
| 木戸池 | 標高約1,600m | 白樺・ダケカンバに囲まれた澄んだ池。無風の朝は逆さ映りが美しい |
| 一沼 | 標高約1,400m・高原の入り口 | 志賀高原で紅葉が最も早い。逆さ紅葉。9月下旬ごろから色づきはじめる |
| カヤの平高原 | 標高約1,400〜1,700m/樹齢300年超のブナ原生林 | 志賀高原の北。北ドブ湿原。通行は6〜10月のみ(冬季閉鎖) |
| 田ノ原湿原 | 環境省選定の湿原 | 木道を歩く。晩夏は草が秋色へ。踏み込まず木道の上を |
| 紅葉の見頃 | 高所の横手山で9月下旬/高原全体は10月上旬〜中旬 | 標高差で色づきが順に下り、長く楽しめる |
| 渋峠・横手山 | 国道292号の最高地点 標高2,172m/横手山2,341m | 志賀草津高原ルート沿い。雲海の名所。夏でも上着必須 |
| 星空 | 標高1,500m以上の暗い夜空 | 晴れた夜は天の川。宿泊での観察がおすすめ。夜は冷えるので防寒を |
道路・索道の運行、開苑・営業の時間は季節や天候で変わります。おでかけの前に、志賀高原公式や各運営の最新情報をご確認ください。夜間の行動や山あいの散策では、ツキノワグマなど野生動物への備えも忘れずに。
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出典
・大沼池(志賀高原最大の湖・最深約26m・水の色・大蛇伝説・原生林・前山サマーリフトから四十八池を経る歩き方):志賀高原 公式マガジン「原生林を歩いて志賀高原のシンボル大沼池へ」 https://www.shigakogen.gr.jp/mgzn/11139.html / 志賀高原観光協会 https://www.shigakogen.gr.jp/ ・田ノ原湿原・四十八池湿原・志賀山ほか(湿原・標高):志賀高原 公式ほか公的情報、Wikipedia「志賀高原」 https://ja.wikipedia.org/wiki/志賀高原 ・池めぐりコース(渋池・四十八池・大沼池を前山湿原から結ぶ/全長約10.3km・約3時間30分・亜高山帯の樹林):信州Style「志賀高原池めぐりコース」 https://shinshu-style.com/nagano-region/town-yamanouchi/nn029/ / 浅間・吾妻エコツーリズム協会 ・一沼(志賀高原で紅葉が最も早い・標高約1,400m・逆さ紅葉)・木戸池(白樺とダケカンバの澄んだ池)・紅葉見頃(横手山で9月下旬、高原全体は10月上旬):志賀高原観光協会「紅葉情報/グリーンシーズン紅葉」 https://www.shigakogen.gr.jp/green_season/autumnleaves.html ・カヤの平高原(樹齢300年超のブナ原生林・北ドブ湿原・標高約1,400〜1,700m・6〜10月のみ通行):木島平村観光振興局「カヤの平高原」 https://kijimadaira.org/article/detail/activity/kayanodaira/ ・渋峠(国道292号の最高地点・標高2,172m)・横手山(2,341m):志賀高原 公式「交通情報」 https://www.shigakogen.gr.jp/road_condition.html / 山ノ内町公式 ・上信越高原国立公園・志賀高原ユネスコエコパーク:環境省・志賀高原ビジターセンター https://visitor-center.shigakogen.gr.jp/
